武器輸出の解禁や、集団的自衛権行使の容認。日本が戦争に近づきつつある2014年10月4日、東京都港区の画廊に大砲の音が響いた。しかしこの大砲は人を殺める武器ではない。人を幸せにするための武器である。この大砲を作ったのは神戸に拠点を置く現代美術家の榎忠さん。榎さんの半世紀に及ぶ芸術活動には平和への願いと、「生きる」ということへの問いが貫かれている。
1971
グループZERO《虹の革命》
三宮が第1回神戸まつりに賑わう頃、 元町商店街では大勢の虹人間が誕生。 彼らはまちで様々な表現を繰り広げ、最後には死滅していく。
神戸まつりは三宮でやるから、みんなそっちに行っちゃって、元町には全然人が来ない。そういう状況に商店街の人は危機を感じていた。僕らは、美術館やギャラリーで発表するにはものすごくお金がいるし、制限もたくさんあるから表現の場が必要だった。それでまちの人と協力して、まちを一つの劇場に見立てた、1日がかりの大きなハプニングをやった。その辺の飲み屋のねえちゃんとか、学生とか、そういう人が150人か200人か集まって、みんなで一緒に作っていった。この頃の僕は、個性に括らないで、表現とかアートっていうものを広く捉えてやっていこうと、グループで活動していた。だけど最近の人は、みんな自分の表現を大事にし過ぎやと思う。芸術の中に閉じこもって、外の世界を捉えていないというか。そうじゃなくて、社会の問題を感じて、自分たちの日常生活から出発している芸術は強いよ。個々を大事にするのは当たり前やけど、もっと広く、人間にとって芸術がなぜ必要なのかというところまで考えていったらどうかなぁ。あまり芸術にはまりすぎると、考えられないところがあるからね。ちょっと逸らして、違う観点からものを見たり、考えたりすると面白いと思う。
1977
「EVERYDAY LIFE / MULTI」展
日常生活を使った芸術をするのならば、と自宅を使った展覧会を開く。近所の大人たちに不審がられる一方、好奇心旺盛な子どもたちには大人気。頭を「半刈り」にしたのもこの頃からで、後に《ハンガリー国へハンガリ(半刈り)で行く》(1977年)のきっかけとなった。
グループを辞めて、ここからは個人でやり始めた。近所の人には迷惑かけたり、怒られたり。何者か分からへんから気持ち悪がられる。しかもこんな頭でうろうろして。だけど毎朝、子ども連れて保育園行きよるから、余計分からんくなる(笑)。大事なのは、自分がやりたいことをできるかどうかやと思うの。半刈りなんかやろうと思えば誰にでもできそうやけど、僕もやるまではごっつぅ悩んだ。やっぱり家族のこと、親や兄弟のことを考えたりする。だけどそれが吹っ切れるときがあるんよ。「これをやらなければ後が続かない」というときが。そういうところまで自分の意識を持っていったらできる。アートとかそういうような次元を超えて、「自分の生き方を示すんだ」っていうところまでね。
1985
《2.3.7.8 TCDD Propagation Dioxin》
春日野道の喫茶スズヤを、ダイオキシンを象った作品たちが占拠した。繁殖は店内に留まらず、翌年にさんちか広場や岡本の知人宅にも出現した。
猛毒のダイオキシンが発見されたとき、当時はほとんど報道されなかった。たった1日だけのニュース! 塩化ビニールがこれからの産業になるっていうときだから、こういうニュースが出たら企業は困るわけよ。だから新聞紙にも全部ストップがかかってしまった。テレビも新聞も何も言わへんから、どうなったんかなって。原発にしたって、未だに放射能の処理ができないでしょ。まだ真剣に考えてないと思うの。あれは人間が作ったもんだから、絶対に処理できると思うの。だけど金儲けにしようとする人が邪魔するわけよ。原発なんか必要ないくらいに立派なものが出てきたら、企業や政府が困るわけ。社会を良くしようとしている政府が邪魔するなんておかしい。みんな頭では分かってるのよ。だけどおかしいことをおかしいと正直に言えない世界が悔しいの。
1986
《AMAMAMA》尼崎市政70周年を記念し、尼崎市記念公園に作られた巨大モニュメント。内部に入って遊ぶことができる。タイトルは「尼崎のママ」の意。
これでっかいよ。宇宙から来た昆虫なの。これも批判があって封鎖されたり、「開けてくれ」って揉めたり。最初は色が黒ってだけで「あかん」って。「子どもが怖がる。子ども向けには黄色、ピンク、青」って。それは大人の考えで、そんなんちゃう。そりゃ小さい子は怖いよ。でも大きいにいちゃんが連れてくるから遊べる。小さい子が大きくなったら、その子がまた下の子を連れてくる。その繰り返しで成長していくわけ。この中は階段も何にもないの。手すりを上っていくんよ。子どもはそこへロープや段ボール持って行ったり、家を作ったりして遊びを発見するの。でも、やはりそれは何かあったらあかんいうことで、行政なんかは嫌がる。大人が危ない遊具って決めてしまってるの。子どもの自由を縛ってしまってる。すぐに悪いもんには蓋をするいうんか。人間の大人って駄目やなぁと思って。
榎 忠 | えのき ちゅう
1944年、香川県善通寺生まれ。16歳から現在に至るま で神戸に在住。10代終わりのバイク事故がきっかけで絵画に目覚めた。1970年代に集中した集団または個人によるハプニング、現在まで続く祝砲パフォーマンスや金属を用いた大規模な作品などで知られる。2014年に開 かれた東京初個展「LSDF-014」展 (山本現代、10月4日~11月22日) や2015年に予定されるロンドンでの活動など、70歳を迎えてなお一層の活躍が注目される。

ARTIST INTERVIEW
現代美術家 榎 忠

生き方を示す芸術

1991
《薬莢》アメリカ・サンタモニカ美術館で 7トンもの薬莢を展示した。見た目のインパクトもさることながら、会場に漂う錆びた匂いが生々しい。
この頃、湾岸戦争で国会が揉めとったんよ。金を出すのか、人を出すのか。その時、僕は先に武器を出しとった(笑)。でも港の税関でペケになって送れなかった。結局、学芸員の人が通産省へ行って、これは使用済みの薬莢だと説明して、なんとか通った。作品ひとつするためにみんな大騒ぎ。日本は外国の軍の武器を製造しているんやって。また優秀なんよ、日本のは。肝心な命中率が一番いいのは日本のなんやって。だけど、そんなのも日本じゃ全然報道されない。
2000
《Play Station》 湊川神社近くのギャラリーグストハウスからトアロードのジャズ喫茶 MOKUBAまで、約150人が機関銃のレプリカを持って移動するハプニングを行った。機関銃はMOKUBAで展示された。
「MOKUBA」って知ってるかな、ジャズ喫茶。店の中にズラッと機関銃並べて、そん中でコーヒー飲んでるの。ジャズを聞きながら。それで、この機関銃は神戸駅から元町まで持って運んだ。元町商店街をずーっとみんなで。参加者の中には高校生もいた。この時にもし通報されたら、僕、逮捕されるんよ。銃器自体は違反にならないの。撃てないし、重たいし、使い物にならないから。だけどこういう物騒なものを人が見て、怖いと思って通報したら、騒乱罪になるの。他の人もいろんなハプニングやってるけど、みんな届け出しとるんよ。だけどこれは許可を取ったらおもしろくないの。「これ持って歩いていいんかな」って、ドキドキしながらやってほしい。人がどう思うかを、人のことを想像するわけ。その辺が大事なこと。想像力がなくなったら、戦争の怖さを想像できなくなる。それが 一番怖い。
2014
《LSDF 014》「Life Self Defense Force(自分の生活は自分で守る)」と名付けられた大砲が初めて作られたのは1979年。2014に年開かれた東京初個展にも巨大な大砲が登場し、オープニングでは祝砲が放たれた。
大砲っていうのは、多くの人にとってはものを壊したり、人を殺したりする武器。そういう方向にしか考えないから、武器としてしか使えなくなる。だけどちょっと考え方を変えたら、魅力的なものがあるやん。根本的にコロッと変えたのね。面白い方向に変えていくわけ。人を喜ばすとか、人と嬉しくなるとか。大砲や拳銃だから難しく思うんだけど、例えば石ころにしたって、出刃包丁にしたって、人を殺せるやんか。だけど料理作るための包丁であれば、問題にならないやん。大砲も人生を楽しくなるような武器にしてしまったらいい。そういう風に変えていったらいいと思う。
僕は人のことを一番大事にしてる。他人だけでなく自分も含めて、「生きる」って何かなって。武器とか戦争とかを超えた普遍的なところまで作っていかな。どうしたらいいんか分からんけど、やりながら考えていくしかないなぁ。涙が出るくらい、「こんなアホみたいなことやって何になるんかな」って思うわけ。答えはどこにあるもんでもないの。自分がやりたいことをやるしかない。それを作るということ。人まねじゃなしに。モノが大事なんと違う。大事なんは、なぜそういうものを作るのか。自分が間違っていようが、自分の思うことを正直にやるのを大事にしてほしいと思う。
聞き手・執筆 大瀬友美